2020/10/12 コラム

池袋踏み間違い暴走事故、似た裁判ではどんな判決が?



判決は…禁錮3年、執行猶予5年


てんかんも脳梗塞もなく、当日は買い物の前に昼寝をしており、ふだんは安全過ぎるくらいの安全運転なのだそうだ。考えごとをしていたわけでもなく、焦っていたわけでもなく、なぜ踏み違えたのか、どう考えてもわからないという。

被告人質問が終わると、被害女性の両親が証言台の前へ進み出て意見陳述をした。被害女性は高校生のとき1年間、カナダへ留学。慶應大学の法学部へ通いながらインドネシア語などを学び、国際交流の関係の仕事を明るく前向きにしていた。母親は最後にこう述べた。

母親「○○(被害女性の名)は私たちの宝でした。そんな宝が消えてしまった今も、○○の明るい笑い声や話し声が聞こえてきて、私たちはこれからずーっと無念さを抱えて生きていかねばならない。被告人を許せるものではありません」

父親はこう述べた。

父親「こんな人間性のかけらも感じられない被告人は、厳罰に処してもらいたい。刑務所の中でゆっくり考えてもらいたい。罪の重さを考えているとはとても思えない。ただただ被告人が憎いです!」

私の隣、傍聴席の最前列中央付近で、喪服の男性が何度も大きくうなづいた。遺影を抱えていた。被害者の兄弟なのだ。遺影はカラーで、明るくはつらつとした感じの女性が微笑んでいた。

遺族の怒りは激烈だった。例えば、被告人はお通夜へ夫と弁護士(裁判では弁護人)と行き香典を出したというのだが、どういう行き違いなのか、遺族は「香典も持たずにきた」と怒った。被告人は謝罪を述べたというのだが、遺族は「謝罪は一切聞いてない」と怒った。また、被告人は保険とは別に200万円を用意したそうで、それは多くの事件と比べて非常に高額なのだが、遺族は「罪を軽くするためのパフォーマンスだ」と怒った。

傍聴していて私は痛切に感じた。「宝」である娘の命を突然に、かつまったく理不尽に奪われて、怒りとか悲しみとかいう言葉では到底表現しきれない無念さを、どうすればいいのか。壊れそうになる心を、被告人へ向けるしかない。被告人のあらゆる言動を憎むことで、かろうじて支えている。そういうふうなものが私には感じられ、涙が出そうだった。最後に、被告人に陳述の機会が与えられた。被告人は、うなだれて静かに述べた。

被「ございません…」

被害女性の父親がじーっとにらんでいた。私は傍聴席から叫びたかった。約2トンものクルマをぐわっと加速させるアクセルと、強力なブレーキ、つまり正反対の結果をもたらすペダルを足もとの暗がりに2つ並べ、ときに過失もある人間に、ひっきりなしに踏み変えさせようとする。それなのに、誤ってアクセルを踏んでしまった場合に自動的に加速をキャンセルする機能がない。この事故のほんとうの原因はそこにあるのではないか!

3週間後、判決が言い渡された。

裁判官「主文。被告人を禁錮3年に処する。この裁判が確定した日から5年間、その刑の執行を猶予する」

交通事故は犯罪傾向のない善良な市民が過失で起こす。ゆえに死亡事故でも執行猶予が相場なのだ。遺族は怒りと憎しみをさらに深めるかもしれない。しかし、たとえ被告人を死刑に処しても、同様の事故は延々と起こり続けるだろう。悔しくて残念でならない、私は傍聴席でそう思った。
※これを傍聴したのは2011年。

〈文=今井亮一〉

ドライバーWeb編集部

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