鋼の精神力を持つダメ男でも、休息は必要だ。度重なる失恋の傷を癒やすため、群馬県は赤城山へ出かけた「私」だったが、やはり老舗旅館で雪ウサギのような“彼女”と知り合って・・。話題の作家、爪 切男が紡ぐ、助手席からのちょっぴり切ないストーリー。
■■■ 1 ■■■ とにかくクルマと縁のない人生だった。
……なんてことを言いつつ、美女たちとの悲喜こもごものドライブデートを幾度も重ねてきた。助手席専門の身でありながら、クルマ好きのイイ女とめぐりあう運は持ち合わせているらしい。
だが、その結果たるや散々なもので、再三にわたる失恋の痛手により、私の心はいささかお疲れ気味なのである。
色恋じゃない、そう、癒しだ。私に今必要なのは明確な癒しだ。旅だ、あてのない旅に出よう。
と、思い立ってはみたものの、まとまった休みを取る時間もなければ、先立つ金もない。ならば近場で済ますしかないと、関東近郊で手軽に行ける観光地を調べてみたところ、群馬県前橋市にある赤城山の近くにいい老舗旅館を見つけた。
赤城山は日本百名山、日本百景の一つにも選ばれるほどの美しい山で、壮観な雪景色とワカサギ釣りで有名らしい。雪か、めったに雪が降らない四国で育った私にとって、雪は特別な存在、まさに癒しである。うん、久しぶりに雪が見たい。これはもうぐずぐずしてはいられない。
クルマを持たない私は電車移動でJR前橋駅へ。そこから路線バスを乗り継ぎ、はるばる来たぜ赤城山。明治時代に創業されたというレトロな造りの旅館が私を出迎えてくれる。エメラルドグリーンの屋根が疲れ目に優しいぜ。二泊三日という小旅行ではあるが、都会の喧騒を離れ、心おだやかな時間をここで過ごしたい。
早々にチェックインを済まそうと一歩踏み出すと、ほぼ時を同じくして旅館に到着したとみられる一台の白いワゴン車が目に入る。品川ナンバーか。私と同じように東京からやってきた宿泊客だろうか……などと思いを巡らす私の目の前で、ガチャッと運転席のドアが開く。
「到着だ~!」と中から出てきたのは、ちょっとゴツめのクルマからは想像できないような可愛らしい女の子。猫耳風のニット帽、大きめのマフラー、ニットのカーディガン。白を基調としたファッションに身を固め、チョコチョコと歩くその姿は雪ウサギを彷彿とさせる。
「わ~、THE 旅館って感じで最高じゃん!」と、『青木旅館』と書かれた入口横の古看板に駆け寄ったところで、ようやく私の存在に気付き、こちらを振り返りペコリと頭を下げるウサギちゃん。その瞬間、私の中で何かが弾けそうになる。いかん、いかんぞ、よこしまな気持ちは東京に置いてきたはずだろう。負けちゃダメだ、負けちゃダメだ、負けちゃダメだ。
■■■ 2 ■■■ 無事にチェックインを終えたあと、小腹が空いたこともあり、旅館内にある食事スペースで昼間から一杯やろうかと目論む。するとそこに、あのウサギちゃんが先客としていらっしゃるではないか。「あ、さっきの人じゃん」という表情で私にほほえみかける彼女。やめろ、君のその純真無垢で無防備な笑顔はもはや凶器の域に達している。
胸の高鳴りを抑えるのに精一杯で、名物のワカサギ定食を全然味わえなかった私は、浴衣に着替えて大浴場へ。旅館の醍醐味といえば温泉だ。ひとっ風呂浴びて、日頃の疲れとよこしまな気持ちを綺麗さっぱり洗い流そう。そして明日は美しい銀色の世界を見に行こう。
来る。
廊下の向こうから……ヤツが来た。浴衣姿のヤツが来た。またか、またお前なのか。これ以上私の邪魔をするな。ダメだ、浴衣に着替えたことで、今まで隠されていたグラマラスなボディラインがあらわになって……。そして再びあの凶器のスマイルが私を襲った。
「アレ? よく会いますね!」
軽く会釈をして脱兎のごとく男湯に駆け込む。念願の温泉にありつけたというのに、私の体は温泉よりも熱く、赤く煮えたぎっている。風呂桶一杯にためた冷水を頭から何度もぶっかける。それでも一度あふれ出した欲望はおさまる気配がない。壁を挟んだ向こう側で無防備な姿で湯船につかっているであろう彼女のことを思うだけで、体の至る所からよくない湯気が立ち昇ってしまうのだった。
■■■ 3 ■■■ 部屋に戻った私は、悶々と妄想にふけるのみ。旅の宿に来ても、やっていることは普段と同じなのだから泣けてくる。
ああ、彼女は今、何をしているのだろう。部屋に遊びに行きたい。いろんな話をしたい。トランプをしたい。ジェンガをしたい。スゴロクをしたい。UNOをしたい。桃鉄がしたい。「旅の恥はなんとやらだよね……」と彼女を口説き落としてイケナイコトをしてみたい。
移動の疲れもあったのか、いつの間にか私は浅い眠りへと落ちていく。うつろいゆく意識のなか、脳裏に浮かぶのは雪女の姿をした彼女の笑顔であった。
子供のころ、学校で習った『ゆきおんな』の昔話。白ずくめの服を着て、口から吐き出す冷気で人を凍らせる恐ろしい妖怪の話をクラスのみんなは怖がっていた。だが、父子家庭で母親の愛を知らずに育った私は、雪女でありながらも、人間との間にできた自分の子供の将来を考え、約束を破った旦那の命を奪わなかった雪女の母性に憧れを抱いたのだった。
憧れはいつしか淡い恋心に変わり、雪女を異性として意識するようになった私は、自らの両手を冷水につけ、キンキンに冷えた手のひらで自分の体を触り、ああ、雪女に触られたらこんな感じなのかなぁなんて馬鹿な妄想をしたものだった。
しかし、なぜ今になって雪女の夢なんか見たのだろう。雪景色を見に来たことで、失いかけていた雪女への恋心に再び火が点いてしまったとでもいうのか。