2023/03/23 コラム

免許返納の高齢者が寺の敷地内で死亡事故、無免許に当たらないってホント!?

筆者、今井亮一の免許証

82歳の男性が、妻が運転する軽自動車に同乗して、福岡県博多市内の寺へ来た。男性は約1年半前に運転免許証を返納していた。が、なぜか寺の敷地内で軽自動車を運転。墓参りに来ていた81歳女性を「はねた」か「ひいた」か、女性は死亡――と3月5日、6日、各新聞、各テレビニュースがどっと報じた。

報道のなかに、じつは非常にヤバイ部分がしらっとあった。

「県警によると…公道ではないため、無免許運転には当たらないという」(複数の新聞)
「警察によりますと…現場は寺の敷地内で公道ではないため、無免許運転には該当しないということです」(ABEMA
TIMES)
「警察によりますと…現場は私有地で道路とは認められないため、無免許運転にはあたらないということです」(NHK)

これらの報道を見て、以下のように思った方がたくさんおいでだろう。

「公道でなければ(道路でなければ。私有地であれば。以下同)、免許なしでも運転していいんだ。そりゃそうだよね」
「うちの前は私道だから、酒を飲んでても運転していいんだ、へ~」
「自動二輪の免許を取りたい。友だちのバイクを借りて駐車場でがっちり練習しよう」

それ、まじでヤバイですよ。道路交通法の第2条第1項第1号に「道路」の定義がある。いわゆる道路に加え、以下の場所も道路とされる。

「一般交通の用に供するその他の場所」

なんだそれ。交通警察官諸氏の虎の巻、『執務資料道路交通法解説』(18-2訂版。東京法令出版)の解説は上下2段組で8ページちょいにわたる。こんな部分がある。

「…現実の交通の有無をとらえてこの法律上の道路とするものをいう。具体的には、事実上道路の体裁をなして交通の用に供されているいわゆる私道がはいるほか、道路の体裁はなしていないが、広場、大学の構内の道路、公園内の通路というようなところで、それが一般交通の用に供され解放され、しかも一般交通の用に客観的にも使用されている場所をいう。しかし、それが管理者の意思によって閉鎖されたときは、ここにいう道路ではなくなる(国会審議における政府説明要旨)。」

同書にはたくさんの判例が載っている。私有工場の敷地内、公民館内の広場、駐車場の中央部分、駐車位置の区画線がない通路部分など、いろんな場所が「一般交通の用に供するその他の場所」とされている。道路性の判断はなかなか難しい場合もあるようだが、少なくとも「公道でなければ道路じゃない」「私有地は道路じゃない」というものではまったくない。

寺の敷地内とはいえ、不特定のクルマが進入して駐車場所へ走行し、墓参りの人も通行するなら「一般交通の用に供するその他の場所」といえそうだ。ならばなぜ、今回の82歳の男性は無免許の罪に問われなかったのか。

公道でなければ免許不要と福岡県警は信じ込んでいた? まさか、それはちょっと考えにくいように私は思う。駐車場の駐車枠内での事故だったとか、なにか特殊な事情があったんじゃないか。

特殊な事情について警察は、記者クラブメディアに対する記者レクで説明したのに、メディアのほうが「視聴者・読者は難しい解説を嫌う」「どうせ理解できない」と考え、結果、上掲のような報道になったんじゃないか。わかりませんけど。

理由はどうあれ、「公道でなければ無免許でも運転OK」と全国に伝わってしまった。広告効果は何億円にも相当するだろう。今後、報道を真に受けた人が、私道や駐車場や広場などで無免許運転、飲酒運転をやらかして取り締まりを受けることが増えるかも。無免許、飲酒の危険性を顕在化させる、つまり事故を起こすことが増えるかも。非常にヤバイですぞ、とはそのことなのである。

ちなみに、無免許運転は過失犯の処罰規定がない。「公道でなきゃ免許不要って報道を見て大丈夫と思ったんだ!」と否認したらどうなるか。普通に考えれば不起訴の可能性が高いだろう。

だが、もしかしたら「あの報道はおかしいとは思ったのです」とか調書に書き、署名押印させる警察官もいたりして。そうなれば、違反者が争って正式な裁判になっても「少なくとも未必的な認識があった」とされ有罪の可能性が大いにある。腹の内に暗い憎悪をため込みかねない。その意味でもヤバイ、って考えすぎですかね。

文=今井亮一
肩書きは交通ジャーナリスト。1980年代から交通違反・取り締まりを取材研究し続け、著書多数。2000年以降、情報公開条例・法を利用し大量の警察文書を入手し続けてきた。2003年から交通事件以外の裁判傍聴にも熱中。交通違反マニア、開示請求マニア、裁判傍聴マニアを自称。

ドライバーWeb編集部

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