2023/02/06 コラム

往年の名ドライバー、北野 元さんが語るフェアレディZとの思い出

レジェンドドライバーの北野 元さん

2022年10月22〜23日に、初代のS30系フェアレディZのクラブ「クラブS30」が軽井沢ツーリングを行った。そのなかでレジェンドドライバーである北野 元さんとの懇談会が行われた。その模様をお伝えする。

■日産ワークスのエースドライバー

北野 元さんは、日産ワークスの黄金時代を築いたエースドライバーである。その戦績は華麗だ。1965年にホンダから日産ワークスに移籍すると、すぐに表彰台に立っている。その名を轟かせたのは、7月に船橋サーキットで開催された全日本自動車クラブ選手権、通称CCCレースだ。発売されたばかりのフェアレディ1600(SP310)でGTⅡレースに出場した北野元さんは、難しいウエットコンディションのなか、浮谷東次郎のロータス・レーシングエランと生沢 徹のスカイライン2000GTに続く3位入賞を果たした。

北野 元さんの魅力は、ライバルに牙を剥くアグレッシブな走りだ。戦闘力に劣るマシンを与えられても、果敢に挑みかかっている。北野 元さんほどストイックな人間はいない。モータースポーツと真摯に向き合い、コンマ1秒を削り取ることに命をかけた。多くの人が知る偉業の1つは、68年5月の日本グランプリでエアロスタビライザー装備のニッサンR381を駆って優勝を飾ったことである。


●1968年の日本グランプリ優勝のR381(北野 元)

だが、もっとも強い印象を残したのはフェアレディでの活躍だろう。66年の日本グランプリではフェアレディ1600のボディに2Lの直列6気筒DOHCエンジンを搭載したフェアレディSを操り、プリンスR380やトヨタ2000GTを退けてポールポジションを奪っている。フェアレディZに切り替わったときも、Z432のデビューレース(70年1月)のドライバーに抜擢された。その後もZ432と240Zでサーキット狭しと暴れまわっている。

■フェアレディZの思い出を語る

北野 元さんは初代のS30系フェアレディZを愛するオーナーによって結成された「クラブS30(会長:渡邉秀記さん)」の名誉会長を務め、クラブ員との交流にも熱心だ。定期的にツーリングなどのイベントを開催しており、2022年10月22〜23日には軽井沢ツーリングを行った。22日に北野 元夫妻をお招きしての朝食会が企画され、食事の後、北野 元さんと懇親の場が設けられている。また、軽井沢在住の宇佐美昌孝さん(元・アメリカ日産副社長)も同席し、フェアレディZの思い出を語ってくれた。

北野 元さんは当時のレース写真や資料をまとめたスクラップブックを見せながら、ツーリングに参加したZオーナーからの質問にも丁寧に答えている。

●初めて見たフェアレディZの印象はどんなものだったのでしょうか!?

北野 フェアレディZは、フロントにパワフルなエンジンを積んだ当時のフェラーリのスポーツカーに刺激を受け、開発したのでしょうね。ロングノーズにショートデッキのクーペフォルムを採用し、日本では高級だった直列6気筒エンジンをボンネットの中に収めていた。ステアリングは重かったね。当時はパワーステアリングじゃないから、切り込んでいくのが大変だった。力があるからうまく操れたけど、タイトコーナーでは重いステアリングに手を焼いたね。

ボクはフェアレディZで育ってきたんだ。70年代、フェアレディZは高価で、憧れの存在だった。オープン時代のフェアレディは4気筒エンジンだったけど、フェアレディZは6気筒エンジンを積んでいます。DOHCエンジンや2.4Lエンジンも用意されていた。高価だからカーマニアでもお金持ちじゃないと乗れるクルマではなかった。日産から普段の足として与えられていたのは、セドリックでしたね。オープンのフェアレディには乗せてくれたけど、日産のイメージリーダーで、フラッグシップのフェアレディZは貸してくれなかった。Zは高級スポーツカーだから貸し渋ったのかな!? クルマ好きにとっては憧れの存在で、しかも高嶺の花でした。

●宇佐美さんにとってフェアレディZはどういった存在だったのでしょうか!?

宇佐美 私は戦後間もなくの1949年に日産に入社しました。10年くらいすると、日産車をアメリカで売ってみようじゃないか、ということになり、アメリカ日産を設立したのです。私もアメリカに赴任し、片山 豊さんと一緒に日産車を売る方策を色々と考えています。片山さんは日産車を私たちの手で売ってみようじゃないか、と意気込みました。でも最初は知名度が低いので売るのは大変でした。10年ほどしてフェアレディZ、ダットサン240Zが誕生したのです。アメリカ仕様などは2.4LのL24型エンジンを積み、販売しました。

240Zはスポーツカーです。レーシングカーではありません。自動車愛好者に売るクルマです。アメリカ日産では、いかにして一般のクルマ好きに売るか、これを考えましたね。また、買ってくれたオーナーに長く愛してもらえるように、力を入れてきたのです。240Zは日産のイメージアップに大きく貢献し、アメリカで輸入車ナンバーワンになりました。日本車のトップになったのだから嬉しかったですね。長く愛し続けてくれたオーナーには感謝しかありませんね。


●元アメリカ日産副社長の宇佐見昌孝さん

北野 日産はフェアレディZの成功で上のポジションに上がることができたのです。日本のクルマが世界に認められた始まりだと思いますよ。当時、フェアレディZは高性能だったけど価格も高かった。2022年に新型フェアレディZが登場したけど、これも高価だね。買えないけど、新型Zにも興味はあるね。

●ハコスカと呼ばれるスカイライン2000GT-RとZ432は同じS20型直列6気筒DOHC 4バルブエンジンを積んでいますが、GT-Rのほうが高く評価されているようです。

北野 フェアレディZの方が素晴らしいクルマだと思うけど、GT-Rは花形スターだからね。レースではGT-Rはツーリングカー、これに対しZはスポーツカーのジャンルに 属している。Zはライバルが格上なんだよ。ポルシェ908やローラなどのレーシングカーとの混走になると、勝てないし、目立たない。辛かったね。長谷見昌弘くんとコンビを組んだときは、7L級のV型8気筒エンジンを積むローラのレーシングカーと同じクラスだったんだ。ポテンシャルが違いすぎるから勝てないよ。

でも、同じエンジンを積むGT-Rと比べれば、Z432が素晴らしいことがわかる。操舵フィーリングもサスペンションのできも上だったと思うよ。速さでもZ432の方が1ランク上だったね。Z432と240Zでは、下のトルクがあって乗りやすいのは240Zだね。Z432は排気量が400㏄小さいし、DOHCエンジンだから高回転まで回してパワーを稼ぐタイプなんだ。うまく乗りこなすことができれば速かった。ただし、高価なエンジンだからオーバーレブさせて壊すと大変だった(笑)。

●現役時代の北野さんの走りは、他のドライバーと違っていました。ライン取りも独特だったように思います。

北野 あのころはタイヤのグリップがそれなりだから、ヘアピンコーナーなどはリヤを流して向きを変え、立ち上がっていたんだ。カーッとコーナーに入ってリヤを流して向きを変え、できるだけ早くアクセルを踏んでいく。小さなRのコーナーはうまくいくと、かなり速く抜けられます。だが、失敗するとクルッと回ってしまうんです。足もリヤを流しやすいようにセッティングしていたね。

●Z432のデビュー戦は70年1月の全日本鈴鹿300㎞レースでしたね。

北野 ホモロゲーションが取れていないのでRクラスで出場したんだよ。でも、サスペンションは決まっていないし、S20型DOHCエンジンはキャブ仕様だった。このレースにはポルシェ908と910、フォードGT40、ベレットR6、そしてGT-Rなどが出場している。が、ウエットコンディションだったことも功を奏し、予選4番手(ワークスGT-Rは1.8秒差で5位)につけることができた。決勝レースではポルシェ908に次ぐ2位につけていたんだけど、8周目の第1コーナー入り口でスピンして止まっているブルーバードに激突したんだよ。体が痛かったし、首を痛めたから直後は息もできなかった。


●1970年1月の全日本鈴鹿300㎞でZはレースデビューを果たす

●Z432に続いてダットサン240Z、フェアレディ240Zが登場しましたが、走りに違いがあったのでしょうか!?

北野 どちらもエンジン重量は同じくらいだね。ワークスマシンは塗装を剥いで軽量化を徹底し、ボルト1本まで軽くするなど、いろいろと手を入れています。Z432に積まれているS20型DOHCエンジンは2Lとしてはパワフルだけど、ドライバーからするとパワーが足りず、もの足りなく感じる。240Zはトルクが太く、力感があった。日本グランプリで乗ったR381とR382でも、1年違うと足がよくなっていたし、パワーも出ていた。バンクでは300㎞/hを超えるスピードになる。

●ここ軽井沢、浅間は思い出の多い場所だと思います。北野さんが活躍した浅間火山レースについて教えてください。

北野 自慢になってしまうから恥ずかしいのだけど、あのころは“乗れて”いたね。二輪デビューは1959年4月、18歳のときで、大阪の信太山で行われた全日本モトクロス大会だった。このレースで優勝し、メーカー選手権100人の1人に選ばれたんだ。そして8月に浅間火山レースと呼ばれている第2回全日本クラブマン選手権に出場した。ワークスライダーがたくさん出場したけど、アマチュアのボクは125㏄クラスと250㏄クラスで優勝できた。また、メーカー耐久125㏄クラスでも優勝するなど、3つのレースで勝ったのです。

3階級制覇したことでホンダのワークス入りが決まり、60年のマン島TTレースでは日本人ライダーとして初めて5位入賞を飾ることができました。ボクの走りに感激した作家の大藪春彦さんとも親しくなり、亡くなるまで、ずっと付き合っています。大薮さんはすごい人、素晴らしい人でしたね。


●クラブS30のメンバーが北野 元ご夫妻、宇佐見昌孝さんを囲む

最後に北野 元さんの奥様が秘話を明かしてくださった。それはマン島TTレースのときに転倒して大きなケガに見舞われ、脳幹に異常をきたしたと言うのである。それ以降、バランス感覚が悪くなり、眼球がずれてテレビが二重に見えるようになったそうだ。ケガをしなければ、もっと速い走りを見せられた、と奥様は悔しがる。ハンディを背負いながらフェアレディZを手足のように操り、ファンを魅了したのが天才肌のレジェンドドライバー、北野 元さんである。限られた時間であったが、クラブS30のメンバーにとっては至福のひとときだった。

〈文=片岡英明〉
〈写真=小見哲彦〉

ドライバーWeb編集部

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