2022/04/04 コラム

沖縄本土復帰50年…右側通行の日本 “沖縄” に初上陸した日 [driver1973年3月5日号]

●7月にサシ木して、翌年1月に刈り入れをするサトウキビ。こどもがキビをかみながらにっこりと笑ってくれた

今年2022年に本土復帰50年を迎える沖縄。1945(昭和20)年3月の米軍上陸(日本の行政権停止)から27年に及んだアメリカ統治。その終わりを告げたのは、1972(昭和47)年の5月15日。今では想像がつかないかもしれないが、返還前の沖縄の通貨はドルで、本土との行き来にはパスポートが必須。そしてクルマは右側通行だった。

ドライバー本誌取材版が新生・沖縄に訪れたのは返還の翌年。開発記号350、日産のブランニューモデルとして1973年1月に発売された「バイオレット」の一試乗記として同年の3月5日号で展開。『ばらえてぃ試乗』と題し、沖縄での “ドラマチック試乗” のほか、都平健二氏による富士スピードウェイでの “ダイナミック試乗”、南アルプス(井川林道)での “アタック試乗”、そしてミス・フェアレディと行く “ムード試乗” と4つの異なるシーンで新型車の魅力に迫っている。

※以下試乗記は当時の表現を残しつつ再構成しています


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●世代交代で大型化したブルーバードU(4代目610型・1971年)とサニーの間を埋める新規車種として73年1月に登場。ブルーバード譲りのスポーツグレード「SSS」はセミトレーリングアームのリヤサスを備えた本格派だ

driver 1973年3月5日号
バイオレット ばらえてぃ試乗

「すみれ草」というかわいい名のバイオレットには、どんな場所がいちばん似合うだろう? 「南の島の沖縄がいい」、「サーキットもいいぞ」、「林道に限るって」、「ぜったい港ヨコハマだね」―かくしてDRのヤング連は、勝手に4種類のバイオレットを持ち出し、“バラエティ試乗”としゃれ込んだのでありマス。さて、さて。

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●1973年3月5日号の巻頭試乗速報は初代三菱ランサー。「ヤングが待ちに待ったスカG-R、GTO2000が登場し、ハイオーナーカー、クラウンもマイナーチェンジ。ことしは “春” から大にぎわいである」


ドラマチック試乗
右側通行の日本 “沖縄” に初上陸
― 4ドア1600GL ― 70.0万円

27年ぶりに戻ってきた沖縄。古い伝統と、きらめく青い海にとり囲まれた島、沖縄。戦争の生々しい傷あとをとどめながらも、再び返ってきた沖縄は、いままた、新しい時代へ向かってスタートをきったばかりだ。その活気みなぎる沖縄を、新しい予感のクルマ “バイオレット4ドア1600GL” で訪ねてみた―

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●ゴザ市BC通りを行くバイオレット4ドア1600GL

異国情緒の那覇のまち


日本の最南端にある沖縄県。県の中心地那覇は人口約30万の国際都市だ。ここには沖縄を象徴するすべてが雑居している。メインストリートの国際通りには、きらびやかな商店が並び、人があふれ、クルマがひしめいている。まさに “沖縄の銀座” といったイメージだ。

那覇市の北側を貫いて嘉手納へ通じる旧1号は、復帰後国道58号と改称されたが、この大通りに左ハンドルの国産車が走り、軍用車が走っているから、異様な印象を受ける。日本なのに日本でない。ヘンな光景なのだ。

それは、米軍の軍用車や黒人の運転するアメ車がたくさん走っているせいもあるが、クルマは右側通行だし、目をあげれば横文字の看板がずらりとあって、異国情緒にどっぷりとひたってしまうのだ。

バイオレットで那覇市をスタートしたが、やはり左側通行に慣れているせいか、右側通行はちょいととまどってしまった。直進しているぶんには問題ないが、追越しをかけたり、左折するのがこれまでの日常と反対だからぐあいがよくない。

若者たちに取り囲まれて


ボクたちの乗ったバイオレットは、本土仕様で右ハンドル。これだと追越しがやりづらいが、左ハンドルよりも運転は楽だ。

しかし、どうしたわけか追越しをかけるクルマが見当たらない。せかせかと走るクルマもないのだ。これはたぶんに、アメリカナイズされたドライブマナーなのかもしれない。

それに気持ちいいのが、やたらとクラクションを鳴らさないことだ。前走車がスタートに失敗しても、後続車がのんびりと待っている風景には、なにかほっとさせられる。もちろん “信号グランプリ” なんてやっているクルマもない。復帰前に、もしそんなクルマがあったら、米軍のMPがすっ飛んで来て “御用” となったそうだ。

那覇市街地を抜け、沖縄の古都といわれる首里へ行く。その昔、首里城の第二楼門であった守礼門の前にバイオレットを駐めると、琉球大学の学生が寄ってきて、「あっ、バイオレットだ。写真で見た感じより大きいな」とひとりが言えば、だれかが茶化す声で、「50円!」と言い、学生たちが大声で笑った。それがなんのことかさっぱりわからなかったが、よく聞いてみると、沖縄に50円売りのバイオレットというタバコがあったのだった。

しかし、笑いをおさめた学生たちは、バイオレットのフロントグリルをながめたり、運転席にすわってみたりしながら、「旧ブルよりも引き締まった感じを受けるな」、「直線的でないから、暖か味があるスタイルだよ」などと、スタイリングについて評を下していた。

運転席にすわった学生は、「ダッシュボードが見やすいから気に入った」といいながらも、右側に取り付けられているコインポケットを指さし、「これはなんですか?」と聞いた。有料道路やパーキングメーターのない沖縄の人にとっては、あまり縁のなさそうな硬貨ポケットを、その学生は珍しそうにながめていた。

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●沖縄のいたるところで新しい息吹が感じられるが、それでも古い沖縄の姿もまだたくさん残っている。平安座島で見つけた民家に、ブルーメタのバイオレットがよく似合った

静かで、心がなごむクルマ


歴史の丘といわれる首里をあとに、国道329号を走って与那原町へ。そこから中城湾を右にながめてゴザ市へと向かう。本土では雪の季節のまっただ中というのに、冬を知らない沖縄では夏草が茂り、窓を開けての走行でも、いっこうに寒くない。道の両側にはサトウキビ畑が広がり、いまちょうどその刈り入れどきであった。

国道329号は、軍用道路として整備された58号に比べて、クルマの量がぐんと少なく走りやすい。そんな道でも心もちアクセルを踏み込んでみたが、バイオレットの16型、1,595cc、100馬力エンジンは、実に静かだった。

それだけではなく、このクルマはしなやかさを強調しているだけあって、木目調のステアリングは握りやすく、メーター類も見やすいし、なんといってもシートのすわりごこちがいいのだ。

それに、このGLの室内はブラックムードのスポーティ仕様と違って、乗る人の心がなごむような明るい色で統一されているため、クルマの中にとじ込められているという、変な圧ぱく感がない。ボクとMカメラマンは、まったくくつろいだ気分でドライブを楽しみながら、ゴザ市へと向かった。


●沖縄のオーナーはあまりクルマを洗ったりしないそうだが、それでも蒸気洗車屋があちこち目につく。この写真はウラ焼きではない。沖縄は右側通行なのだ。みんなドライブマナーはひじょうにいい

ファントムが飛んでいった


ゴザ市は基地の町として広く知られているが、那覇が銀座なら、ここは新宿といった感じ。黒人兵や半ソデシャツ姿の白人兵が目だつ。横文字の看板、ヌードショーのポスター、厚化粧の女たち、町じゅういたるところに、基地の町の風景が展開している。

そんなゴザ市をあとに、太平洋へ突き出た勝連半島へと走る。だが、半島の突端は米軍の軍用地で「立入禁止」だった。勝連半島の与那城村から、長さ5㎞の海上道路を走って、平安座島へ渡った。その昔、源氏に敗れた平氏が住みついたといわれる伝説の島だが、いまは石油基地と化している。

古い沖縄をとどめたような勝連半島から石川市へ出て、小さな山を越え、東支那海側へと走る。仲泊からガジュマルの樹木を通して、コバルト色の海が見える。まぎれもなく “南の海” だ。そんなのどかな南国情緒にひたっていると、F4ファントム戦闘機がどこへ行くのか爆音を残して、ボクたちの頭上を飛び去って行った。

時計を見ると午後6時。那覇へ向かうボクたちのバイオレットのボンネットに、かすかな夕日が映っていた。全走行150㎞の沖縄中部コースを走ってみたが、しなやかなクルマ、バイオレットは、全く疲れを感じさせなかった。

〜 1972年の復帰以降も、沖縄の対面交通はしばらく右側通行だった。これが「一国一方式」の国際条約(ジュネーブ条約)に従い本土と同じく左側通行に変更されたのは、6年後の78(昭和53)年7月30日のこと。前日(29日 午後10時)のサイレンの合図とともに全県の車両を通行止めとし、通行区分の切り替え作業を開始。翌30日 午前6時に作業が完了した。この、沖縄の日本復帰を象徴する一大プロジェクト(キャンペーン)は、実施された日にちなんで「730(ナナサンマル)」と呼ばれている。ちなみに初代バイオレットの型式は710(ナナイチマル)である 〜

〈まとめ=ドライバーWeb編集部〉

ドライバーWeb編集部

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