2020/06/29 モータースポーツ

ヨーロッパ発祥の文化に立ち向かう“日本人たち”。1992年の記憶【連載第8回:熱田護のF1勝手に片思い】


今回は、日本人ドライバーなどについて書こうと思います。

ご存知のように、モータースポーツはヨーロッパ発祥の文化です。

F1は今年70年目を迎えます。

そこに、アジアの日本から参戦しようとすれば、ハードルは低くはありません!

素晴らしい雰囲気だし、多くの人が憧れエネルギーに満ち溢れた世界。

しかし、特にお金が絡んでくることが前提のスポーツですから、百戦錬磨?海千山千?の闊歩するパドックの住人たちから痛い目に合う可能性もなくない、いや、過去にも多分いっぱいあったと思います。

日本人のドライバー、メーカーとしての参戦、スポンサーしようとするにしても、われわれメディア関係ですら、何かしら人種的なことで別扱いされることはゼロではありません。

僕個人的には、まあ、気にしても仕方がないのでなるべく早く忘れることにしています!

それよりも、日本人だってやれるんだというところ、成績を出すことで「どうだ!見たか!」という場面を見て写真に記録したいという思いが僕のモチベーションの大きな柱になっています。

ですから、基本的に日本頑張れという気持ちで29年間やってきました。


鈴木亜久里選手。1989年からF1にフル参戦をしていて、1990年の日本グランプリでラルースに乗り3位表彰台獲得。僕がF1を撮影するようになったときには、すでに大スターでした。

1992年からは、フットワークから参戦、フットワークは日本の宅配便の会社でアローズを買収してフットワークチームとして活動し、無限ホンダエンジンを搭載。日本の色の濃いチームでした。

チームメイトは、ミケーレ・アルボレート選手。


東芝ダイナブックのイメージキャラクターもやっていた亜久里さん、カッコよかった。

でも、緊張感に満ちていて、話しかけずらい雰囲気が漂っていました。

成績も、コクピットの大きさの問題などで苦戦しノーポイントとなってしまいました。

対して、アルボレート選手は6ポイント獲得し、コンストラクターズ7位を得ました。


ドイツにもファンクラブがあった亜久里さん。

すごいね!


片山右京選手。

この年からフル参戦開始!

マシンはラルース・ランボルギーニ。


CABINやセントラルパークなど日本の企業がスポンサーについていました。

というか、ほとんどのF1チームに日本企業のステッカーが付いていました。

懐かしいと言いいますか、今から思えば嘘みたいな状況でした。

思い起こせば、この年の僕のプレスパスはフットワーク出版という出版社から発行されていた『F1サーカス』という月刊誌で出してもらっていました。

その当時は、F1の専門誌だけでも20誌以上はあったし、日本人カメラマンも各グランプリ25人くらい、ジャーナリストは35人くらいはいました。

それに、各スポンサーや広告代理店の人、などなど日本人がた〜くさんパドックを歩いていました。

それが、近年最も少ないときはカメラマンが僕1人、ジャーナリストが3人…とかのグランプリがあったりするわけです。

専門誌は1誌のみ!F1速報!頑張っていただきたい!

理由はいろいろあるんだろうけれど。淋しいね。

暗くなっても仕方ないのでこの辺で…。


いかがですか、この形。

シンプルですね!

ランボルギーニV12気筒の音は…正直思い出せません!

でも、ホンダ、フェラーリ、ランボルギーニ、ヤマハの12気筒エンジンは当たり前かもしれませんが、全部音が違っていて走ってくればどれかわかりました。

この年の成績は16戦中6回しか完走できず、ノーポイントでした。


右京選手、ル・マン24時間レースにも参戦したんです。

マシンはトヨタTS010。


そして、この年でホンダの第2期の参戦を終了しました。

ノーズのHマークが大きい。


この写真は、日本グランプリの鈴鹿サーキットのピット裏でピットに運ばれていく、日本の至宝ホンダRA121Eエンジンであります!

運んでいたホンダのメカさんに頼んで撮影させていただきました。

もう最後ということもあり撮影させていただきました。ありがとうございました!

今では、ツインリンクもてぎのコレクションホールなどで展示されていますが、やっぱり、現役のエンジンは配線、配管などを見ると迫力ありますね。

かっこいい!

好きだな〜〜〜V12。


ハンガリーグランプリでレース後に合った少年。

レーシングスーツ、しっかり作り込んでいますね。

でも、青いキャップは…カブスだったのは仕方ない!

今も、F1見ているかな?

 

次回は1992年のその他のチームなどです!

〈文&写真=熱田 護〉

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