2020/05/11 モータースポーツ

1991年のセナ、プロスト、マンセル、アレジ、ピケ、そしてシューマッハ【連載第3回:熱田護の勝手に片思い】

大好評? 連載3回目にして、内容を少し変更します。

 

当初、ドライバー別に連載していこうと思ったのですが、そうするとセナ選手だけでず~~~っと続いてしまう感じになってきたので、ならば年代を追って進めたほうがいいのではないかと思った次第です。

僕が、F1に転戦し始めたのは1991年。この年は全16戦開催されたのですが、僕は6戦取材しました。
それ以外は、オートバイのWGPと日本国内のレースの撮影などをしていました。


F1を6戦取材して、いろんな方に助けていただき撮影の軸足をオートバイからF1にすることを決断した年が1991年です。オートバイレースが大好きでプロとして8年間やってきていたので、僕にとって大きな変化でした。

オートバイに比べて、F1は写真を撮影するにあたって難しいのかどうなのか? よく質問されることなのですが、トップスピードは同じくらいなんです。

でもコーナリングスピードが圧倒的にF1の方が速いんですね、タイヤが4個も付いているし、その接地面積はオートバイの場合、名刺4枚くらいしかありませんし、F1は大きなウイングでダウンフォース使って押し付けているわけですから差があって当然。

でも、オートバイは小さいですからその分ピント合わせはシビアになります。なので、いい写真を撮るのはどちらも同じくらい難しいという結論です。

開幕戦アメリカグランプリ、フェニックス。撮影の段取りやら何から何まで、初めてでドギマギしながらのF1でした。


なにぶん、29年前のことですし、忘れることに関してはすごく自信があるので、調べつつなるべく正確に書いていきたいと思うんですが、今後間違っていたらすみません……。

さて、そんなF1でセナ選手に出会って、勝手に片思いをどんどん深めていったわけです。カーボンモノコックの穴から足元が見えていたり、いろんな発見しながらの撮影でした。

この1991年は、セナ選手にとって最後のチャンピオン獲得年。と同時に、ホンダがチャンピオンになったのもこの年が最後になるわけです。


フランスグランプリ、マニクールサーキット。

真ん中の男性は、ジャンマリー・バレストルさん、FIA会長。戦時中はナチスSSに所属していたとか、とかく昔気質な悪者イメージな感じとともになんとなく触れてはいけない、大人の事情が歩いているようなそんな雰囲気の人でした。

同じフランス人であるプロスト選手贔屓で、セナ選手とはいろいろな確執がありました。セナ選手の表情が物語ってますよね。

ド派手な女性は、バレストルさんのお友達か?


アラン・プロスト選手はこのとき3度のワールドチャンピオンを獲得していて、前の年からフェラーリに在籍。

しかし、1991年のフェラーリは出来が悪く、赤いトラックだと発言してフェラーリをクビになってしまったりしてます。


日本グランプリのナイジェル・マンセル選手。チャンピオン争いは、セナ選手とマンセル選手の二人で繰り広げられました。

日本では、絶大な人気ありましたね。


開幕戦アメリカグランプリのマンセル選手とウイリアムズルノー。

インダクションポッドの部分が白くて、キヤノンの文字が入っています。第2戦のブラジルグランプリまで、このカラーリングで走ったみたいです。キヤノンがメインスポンサーだったんです。


ジャン・アレジ選手。

1989年にティレルでデビューし、この年フェラーリに移籍して若手ナンバー1の注目選手でした。

カッコよかった!


ネルソン・ピケ選手。

3度のワールドチャンピオン、セナ選手とともにブラジルのヒーロー。この年、引退しました、ギリギリ撮影できたことに感謝。

最近でも、昔のF1に乗ってデモランしたり、息子のレースの応援によくサーキットで見ます。その息子さんが、違うお母さんでたくさんいるのでビックリです。

そういう意味でも昔風の大胆男を地で行く感じのドライバーだったんではないかと思います。


ベネトンで、後半の5戦ピケ選手のチームメイトだったのが、F1参戦1年目の若きマイケル・シューマッハ選手。

このあと、7回もチャンピオンを取るドライバーになるわけです。

1991年は、あと2回書いていきたいと思います。

〈文&写真=熱田 護〉

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