2020/09/25 コラム

1995年のF1は日本人ドライバー3人が参戦!でも現実は厳しかった…【連載第18回目:熱田護のF1勝手に片思い】

1995年シーズン、日本人ドライバーは3人がエントリーしていました。
片山右京、井上隆智穂の両選手がフル参戦。鈴木亜久里選手は6戦にスポット参戦でした。

片山右京選手は、1994年シーズンの速さは誰もが認めるものの、どうしても上手く噛み合わないレースが続き、全16戦中4戦しか完走出来ない状況。その4戦は5位、5位、6位、7位という結果でした。当時は6位までのポイントを与えられていたわけで(現在は10位まで)、速さがあったのはリザルトからもわかると思います。

残りの12戦は全てリタイヤでした。その原因はマシントラブルが多く、もし壊れなかったら表彰台のチャンスは1度や2度ではなかったと思います。ですから翌年、つまり1995年シーズンこそ右京選手はやってくれるに違いないと本人もそう思っていたし、僕も日本中のファンもそう思っていたのです。

でも、現実は甘くなかった…。

チームメイトはミカ・サロ選手で手堅く成績を残して5ポイント獲得、チーム内の発言力も大きくなるなか、右京選手は大きなクラッシュもあったり引き続き噛み合わないレースも続き、ノーポイント。
ずっと見ていて、じつに歯痒かったですね。
この写真はブラジルグランプリの1コーナー。右京選手、ジョニー・ハーバード選手、鈴木亜久里選手です。



ケン・ティレルさんと右京選手。
イギリスグランプリの会期中にヤマハ主催のイベントでの一コマだと思います。
この当時は、各グランプリ色々な企業やスポンサー関係のイベントやパーティーがよくありました。
現在はほとんどありません(特に今年はコロナの影響で皆無だと想像しますけど…)
ケンさんは1970からティレルレーシングを立ち上げてF1に参戦。
日本のバブル期のF1人気でテレビコマーシャルにも登場していました。



井上隆智穂選手。
日本人ドライバーで4人目のF1フル参戦を果たします。
チームはフットワークアロウズ。

引退後に井上さんとのお話するなかで、印象的だったことをひとつ。
「色々なスポーツがありますけれど、それぞれそのトップクラスの選手というのは人並みはずれた超スーパーアスリートですよね、サッカーとか野球スキーとかなんでもそうです。しかしモータースポーツというのは唯一、スーパーアスリートでなくても参加できるんです。それががF1なんですよ!」

いつもの自虐的な例えで言ったことだとしても、レーシングカーをドライブする能力は普通では成し得ないことに変わりありません。

井上選手のF1までの経歴は、国内でF3参戦、表彰台はなかったものの何度も入賞したり、日本グランプリの前座のF3では予選3位になっていたり、国際F3000にステップアップ。スポンサーの獲得にも精力的に行い、1994年の日本グランプリでシムテックからF1デビューを果たして、1995年に念願のフル参戦を果たしたのです。

現在のF1のシートを獲得するには、F3やF2などでしっかりとポイントを獲得しなければスーパーライセンスの発給は得られませんし、なおかつ自動車会社のバックアップや大きなスポンサーの後ろ盾、もしくはお父さんが大金持ちということなしには現実的には難しい。この1995年当時のシート獲得の幅は、現在よりも若干広かったのは事実です。



フットワークFA16、エンジンはハート。
非力なエンジンでしたが車体はそこそこよくて、チームメイトのジャンニ・モルビデリ選手は17戦中10戦に参戦し6位と3位に入賞。井上選手は17戦全戦参戦し5戦完走、最高位はイタリアでの8位。

記録より記憶に残るエピソードとして、モナコのセッションが終わってマシンに乗ったままけん引してピットに戻っているときに、オフィシャルカーに追突されて横転してしまったことと、ハンガリーでマシントラブルでコース脇に止め、エンジンからの火を消そうと消火器を自ら持って消火しようとしたところ、またもやオフィシャルカーにはねられてしまったところを映像に残されているのが有名であります。
皆さんも、検索して探してみてください!

現在はF2参戦中の佐藤万璃音選手のマネージャーや東京中日スポーツのコラム執筆、SNSで情報発信してファンを楽しませてくれています。

〈文と写真=熱田 護〉

ドライバーWeb編集部

RELATED

RANKING