2020/09/01 コラム

トヨタ初の量産オープンカー、パブリカ コンバーティブルについて多方面から言いたい放題!【東京オリンピック1964年特集Vol.20】

●幌の脱着には1人で5分かかったという

前回東京オリンピック開催年、1964年を振り返る連載20回目は、driver1964年8月号に掲載したトヨタ初の量産オープンカー「パブリカ コンバーティブル」について。

※該当記事はページ最下部に


多方面からの評価で実力を暴くユニーク企画



創刊当時のdriver誌では、「国産車試乗リポート」も名物企画の一つだった。毎号1台のクルマを俎上に載せ、クルマ好きの一般ユーザー、工業デザイナー、そしてジャーナリストあるいはテストドライバーがそれぞれの立場で印象や評価を述べた、ユニークな試乗記だ。

1964(昭和39)年の8月号では、前年10月に発売されたトヨタ パブリカ コンバーティブルを採り上げている。トヨタ初の量産オープンカーだ。



●コンバーティブルの製造は旧セントラル自動車。その後もMR2、セラ、WiLL Vi、bBなどトヨタのユニークな車種を多数担当した

誌面は充実の10ページ。トップバッターは、シナリオライターの島谷さんという一般ドライバーだ。試乗ルートは、都心から第二京浜(国道1号)で大磯を目指し、相模湖を経由して新宿に戻る150㎞。当時は一般道がほとんどだが、ルート図の銀座-川崎間には「高速道路」とある。きっと東京オリンピック開催に向けて開通していた首都高1号線(連載第13回)だろう。



U-B型エンジンはセダンのU型697cc空冷の水平対向2気筒がベース。ツインキャブやハイカム採用などによって、28馬力/5.4kgmから36馬力/5.7kgmにパワーアップされていた。車重はセダンより40㎏増えてもなお、620㎏と軽量。島谷さんはトップギヤの伸びが悪いとしながらも、「普通車(1500㏄クラスまで)でチューンアップしていない程度の車なら、競争を何度も試みたが、絶対といっていいくらい負けることを知りません」(文中より、以下同)。


●1966年にはソフトトップをFRP製ハードトップに替えたディタッチャブルトップも追加された

ハンドルの切れは遊びが少なく、高尾山でも安定した走行性能を発揮。ゆったりとした専用のバケットシートと相まって、3時間あまり走りまくっても疲れを感じさせない。
「値段からいっても手ごろで求めやすく、エコノミカルなファミリースポーツカーといえるでしょう」

通商産業省(現・経済産業省)の国民車構想を叩き台に、初代パブリカは1961(昭和36)年に2ドアセダンでデビューした。当時、庶民にとってマイカーはあこがれの存在。でも、あまりに質素に徹した内外装は、当初けっして評判が芳しくなかった。


●パブリカの発売とともに、販売力を大幅に増強すべく新しい販売チャネル「パブリカ店」も設立された。のちのカローラ店だ

乗員にとっては窮屈だったオープン化



工業デザイナーの浜 素紀もその点は手厳しいかと思いきや、まとまったデザイン、セダンで580㎏という軽量設計、優れた基本性能など、国民車としての条件をある程度備えた仕上がりに一定の評価を与えている。



しかし、コンバーティブルについては、そもそもの商品コンセプトや、ボディのオープン化によって結果的に人間工学を無視したかたちになった設計を、バッサリ切り捨てている。
「パブリカのような車を特別なオプション、または改造を施して値上げすることは、本来の低価格大衆車の意味を失うことではないかと思います。(中略)スタイルを追うばかりでシートは窮屈になり、ホロの構造も完全でなく、しかも2割以上も高いものになった。これはユーザーへのサービスとはいえないと思います」



浜さんの関心は、同じパブリカベースのもう一台に向いていたようだ。1962(昭和37)年の第9回全日本自動車ショー(現・東京モーターショー)に、コンバーティブルと同時に出品されたパブリカ スポーツである。記事にはその写真も掲載されている。


●1963年全日本自動車ショーに出展されたパブリカ スポーツは、旧・関東自動車工業が開発。コンセプトモデルはドアの代わりに航空機のようなスライド式キャノピーを採用していた。「セントラル」と「関自」はともに現在、トヨタ自動車東日本になっている

「本来のパブリカセダンは、こんなプロトタイプにも利用できるほどの優秀なエンジンとサスペンションを持っているのですから、メーカーはその方の長所を伸ばして、いっそうの洗練を加え、価格を下げる方向に努力していくほうが、中途半端なスポーティ・オープンカーを出すことよりも、ずっとユーザーに対する本当のサービスではないでしょうか」

パブリカ スポーツがトヨタ スポーツ800としてデビューするのは、ご存じのとおり。

この号でテストを担当したのは、本誌記者の熊谷勲夫さんだ。熊谷さんはコンバーティブルの商品コンセプトに肯定的だが、それには伏線がある。

そもそもパブリカのセダンについて、低価格でパブリックカー(大衆車)の名前にふさわしいクルマであるとしたうえで、

「だから、パブリカ・デラックスの存在は納得できない。デラックスなら、それはもう『パブリカ』ではなくなっているのだ」

パブリカは当初、前述のように販売で苦戦が続いた。が、内外装の見栄えがよく装備も充実した「デラックス」を63年に追加すると、売れ行きが上向いた経緯があった。

「しかし、コンバーティブルとなれば、使う人も目的も異なり、装備がデラックスで値段が高くなっても、それは全然別個の車なのだから、問題とすべきではない」



しかし、ソフトトップについては要改善点を多々指摘している。頭に当たる鉄パイプの骨、相当うるさいバタつき、隙間から入る風や雨水、盗難が心配な外側から閉めるチャック・・・。昔の幌はこのほかにも、オープン/クローズでホックを何カ所もパチパチ付け外しする必要があった。「脱着」時間は一人で5分。だが、これについては「面倒くささなどまったくなく、この作業がむしろ楽しいもの」と記されている。

村山テストコース(連載第17回)で計測した0〜400m加速は、ベストタイムが21.5秒。今のクルマで言うと、ボディサイズや車重は現行スズキ アルトの最軽量モデルと同等で、パワーは前述のとおり40馬力もないから、妥当なセンだろう。ミッションはコラム式4速MT。

「外見は可愛らしい仔馬だが、性能は駿馬の片りんを示す。乗ってみると八方美人の内面のチグハグさに驚く。(中略)しかし、試乗してみてこれほどの欠点を見出したのもかかわらず、これほど愛着を抱かせる車もちょっとない」

そして、結論の最後では、コンバーティブルに限らずパブリカに対して室内空間拡大の必要性を訴えている。その手段として提案しているのが、FFレイアウトだ。



「前後に短い水平対向エンジンの利点を活かすことである。車軸の前にギヤボックスをつけ、前輪駆動にすればよいと思う」

ギヤボックスの位置はともかく、それが実現していたらスバル1000(連載第15回)同様の水平対向FF車が誕生していたことになる。

U系エンジンは69(昭和44)年デビューの2代目パブリカにベーシックユニットとして受け継がれるが、72年の大幅改良で姿を消した。トヨタ初のFF車は78(昭和53)年の初代ターセル/コルサ。ただ、エンジンは直4ながらまだ縦置きで、横置きFFの採用にトヨタは慎重だった。その登場は82(昭和57)年の初代ビスタ/2代目カムリまで待つことになる。



〈文=戸田治宏〉





ドライバーWeb編集部

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