2020/08/31 コラム

1994年のF1は悲劇の連続【連載第15回:熱田護のF1勝手に片思い】

1994年というと、セナ選手の回で書いたように、悲しい思い出が真っ先に溢れます。
白いレーシングスーツのドライバーは、ローランド・ラッツエンバーガー選手。
オーストリア人で33歳。
セナ選手が日曜日のレースで他界したその前日の土曜日、セナ選手が衝突したタンブレロコーナーの一つ先の高速コーナーのウオールに衝突して亡くなりました。
この写真は、金曜日、イモラサーキットのシムテックガレージで撮影しました。
1990、1992、1993と日本のF3000にもフル参戦しているので、日本のレースファンにも馴染みの深い選手でした。

この第3戦のサンマリノGPは、ルーベンス・バリチェロ選手も大クラッシュで入院、ラッツエンバーガー選手、セナ選手が亡くなり、レーススタート時のアクシデントでホイールが観客席に飛び込みお客様が怪我をするなど、もうなんというか、鈍感な僕でもサーキットに重苦しい空気が澱んでいたように感じました。

レーシングドライバーならほとんどが、F1レーサーになってみたいと憧れ、努力しやっと手に入れたそのシート。
たった3戦目でその夢の舞台から降りなければならなかったわけです…。



ゲルハルト・ベルガー選手、前年までセナ選手とマクラーレンでチームメイト。
サンマリノGPの次のレースがモナコGP、ベルガー選手自身レースをこのまま継続すべきかどうかの迷いがあり、それを確かめるために木曜日の最初の走行セッションに臨みました。

木曜は朝から雨、モナコの街は暗く沈んだ空気に包まれていたように思います。
走行時間になり、土砂振りのコースにただ一人走行をしたのは、ベルガー選手でした。
僕はトンネルの出口で雨合羽を着込み立っていました。

そこに、ピットロードの出口から全開走行するベルガー選手、静まり返っていたモナコの街全体に響き渡りました。
1コーナーから坂を駆け上るそのフェラーリ12気筒エンジンの排気音が果てしなく悲しく、真っ暗なモナコの街に響きました。
徐々に近付いてくるほど、涙が溢れ出しトンネルから現れたそのときには、嗚咽状態でシャッターを押せる状態ではありません。

情けないですが、そのときのベルガー選手の写真はありません。

その瞬間にやっと、セナ選手がいないことが実感として自分の中に落ちたように思います。



この笑顔のベルガー選手は、ドイツGPでポールtoフィニッシュで優勝を飾った時の写真です。
1994年は、ベネトンのシューマッハ選手が8勝、ウイリアムズのヒル選手が6勝、マンセル選手の1勝、そしてこのベルガー選手の1勝というシーズンでした。
同時に、12気筒マシンの最後の勝利となったのがこのグランプリ。



カールベンドリンガー選手、このモナコ、ここから200mほど進んだタイヤウオールに激突して一時意識不明の重体となってしまいました。もう、勘弁してくれという誰もが感じた異常事態。



ベンドリンガー選手は、その後回復し、復帰したけれどそのクラッシュの影響なのか、スピードが戻らず翌年6戦を戦ってF1から引退しました。



これは、どこのグランプリだったか覚えていませんが、問題があればこのように選手同士集まって話し合いが持たれていました。

その後、安全対策がマシンにもサーキットにも求められ改善して現在まで至ります。
どうか、この1994年シーズンのような悲しい事態の繰り返しにならないよう、明るく楽しくエキサイティングなレースができるように願いたいです。

〈文と写真=熱田 護〉

ドライバーWeb編集部

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