2020/05/03 モータースポーツ

事故死から26年。アイルトン・セナの不思議な憂い【連載第2回:熱田護の勝手に片思い】


セナ選手2回目を書いていきたいと思います。

2020年5月1日で、セナ選手がなくなって26年も経ってしまいました。

今になってだからなのか、その当時からそう思ったのか記憶には明確には残っていないけれど、その表情はどこか憂いがあり寂しげに見えるのは僕だけでしょうか?


1991年マクラーレンホンダMP4/6。

ホンダエンジンとセナ選手の組み合わせで、われわれ日本人にとって盛り上がる要素として十分なものがありました。

セナ選手にとって、最後のチャンピオンを獲得した年。


1992年、ポルトガルグランプリ。

エストリルサーキット。このサーキットの光は透明感に溢れていて写真撮るのが楽しくなる場所でした。


1992年イタリアグランプリ。

モンツアサーキットの最終コーナー、パラボリカ。


イタリアグランプリで勝利する。

モンツアの熱狂的なお客さんを表彰台の上から眺めるセナ選手。

ホンダエンジンでの最後の勝利となる。


セナ選手のベストレースにあげる人多数の、1993年ヨーロッパグランプリ、イギリスのドニントンパークサーキット。

この年は、ウイリアムズルノーとプロスト選手が圧倒的に速くて、路面コンディションが変わるような天候を味方につけないとどうしようもなかった年。マクラーレンはホンダエンジンを失い、フォードエンジンを搭載することになっていました。


1993年のブラジルグランプリでも、雨を味方につけて見事な優勝を飾りました!

素晴らしいレースでした!


1993年フランスグランプリ、マニクールサーキット。

金曜日のプラクティスのが終了する間際に最終コーナーでスピンしてマシンから降りたところのセナ選手。

思うように走ってくれないマシンに対する苛立ちをピット前で故意にスピンしてアピールしたのではないかと…


1993年最終戦のオーストラリアグランプリ、アデレード。

最後の勝利となりました。

翌年は、あの無敵のマシン、ウイリアムズに移籍することが決まっていました…。


どんなスポーツでもたらればを言い出したらキリがないですが、もし、ホンダが参戦を継続してトップレベルのエンジンを供給し続けていたならば、

アイルトン・セナ選手はホンダと共に戦い続けてくれたような気もします…。

〈文&写真=熱田 護〉

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